2008年4月28日月曜日

いつでもどこでも誰もがイライラするのはなぜ?

 なぜそうも、誰もがいちいちイライラするのだろう。あれこれ気になるのはなぜ?

 それだけは許せない、言いたいこと、そうあるべき事、言わずにいられないこと、そうじゃないだろう、間違っている、正しいのは、、、、。
 そんな言葉が交わされるたび、やはり我々は争うべき資質を持っていると思い知らされる。争い、攻撃し、自分の優位さを、機会が有れば示そう、難癖を付けて戦おう、それこそが生きると言うことだと見える。 見るもの聞くモノ、動くモノ、触れるモノ、五感の全てが対象を、良い、悪い、そうあるべきモノと有ってはならないモノ、許せるモノと許せないモノとに選別しながら、そのじつそれらを共有はごくまれで、ほとんどの場合誰もが勝手に定義し、強い意志で誰かとぶつかり争う。
 一方、道に石が落ちでいる。空に雲が浮いている、さわやかな風が吹く、それにもいちゃもんが付けられるが、ケンカは出来ない。相手にならないし得にもならない。だからケンカをしない。 ”ケンカをしないで見過ごす”、という選択肢がある。実際にそう言った行動はあるけれど、人の感覚はそれをほとんど見過ごせない。何でもかんでもカンに障り、イライラのネタになり、人を攻撃的にさせる。もしくは我慢をすることで、イライラを蓄積をさせてより大きなケンカへとエネルギーの充填をする。
 そうでなくてはならないこと、そうあるべき事、良いこと、悪いこと、許せることと許せないこと、そのほとんどはだぶん大局的にはどうでもいいことだ。見過ごせば過ぎてしまうこと。感じなければ過ぎてしてまうこと、解決する必要のないことばかりだ。解決できないイライラを除けば。
 要するに困ったモノは問題事象ではなく、それをイライラさせる脳の仕組み、本能なのだ。隙あらば相手を攻撃しようとする、また、自分の優位さを示しそれをおびやかすものを排除しよう、そうすればイライラを消してやるという生き物の仕組みなのだ。
 欲はイライラを産み、小さな満足に欲は味を占め大きな満足に向けてイライラを増す。欲と満足は果てしなくイライラを増していく。

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