2009年1月26日月曜日

生物の多様性、絶滅種保護のこと

絶滅種保護、生物多様性の確保は、意味がないと考える。それは実現できないと思う。以下は、私の偏見である。

多様性;私の定義では、10あれば、お気に入りが2,無害が3,有害が5。 これが多様性である。好まざる物の存在を認めること、これが多様性の容認である。しかし、文明の進歩、豊かさの進展は、好まざる物を排除することで獲得してきた。それが連鎖のどこかで必要になるかどうかなど、誰も意識することもない。クモ、蟻、蜂、みみず、みんな遠ざけてきた。だから、どこか遠くで多様性を守って欲しい。しかし、自分たちの生活の近場はイヤだ。それは、都会は便利で人工的で埃もゴミも無いところにしておいて、気が向いたときに里山へ行きたいから、我慢できる短時間だけ里山は必要だ、と言う理屈と同じ。豊かな生活のためにゴミをどんどん掃き出すシステムが欠かせないのに、掃き出したゴミはどこか目の届かないところへやってほしい。そのための費用のほうが、里山に投じる費用より大切なのだ。そう言った人たちが、多様性と、絶滅種の保護を求めても、その目に何が映っているのか疑わしい。

生物は多様な種が、多様な環境下で、多様な形態を作っている。それはどうあるべきとか、条件を規定する物でもない。形が無くなんとでもなる不定自由な物なのだ。環境が変われば、生態系はそれに準じて姿形を変えていく。何かの種が消えれば、別の種がそれを補う。いつも地球はなんらかの生き物、DNAで満ちあふれている。それは誰かが好き嫌いを言う事柄ではない。憂うべきはわれわれの種の未来であって、他の種のことではない。誰かを守るほど、人は強くないし、他のどんな種より愚かだ。自分の首を絞めているのだから。

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