2010年8月7日土曜日

確信、を疑う

我々は多くの確信を持つ。物事を”そうだ”と思い、”間違いない”と感じ、”そうに決まっている”と確信する。過去の様々な出来事を思い出し、整理し分類し、理論を組み立てて疑いやあいまいさを一つづつ消していく。足りないところは埋め、疑うところを確認するために裏付け手段を取る。あれこれと詰めていって、そう、それはチェスや将棋と似て、ひとつひとつのコマの位置から、相手の王を追い詰めていく時の”間違いない”実感を得る。

それは、行動に方向を与え、障害を乗り越えて困難な目的を達成させる。揺るがない意思と行動力を産むための手段だ。”そうに決まっている”という結論は、ひとつひとつの小さな”確信”の積み重ねだ。その小さな確信はその人がこれまで生きてきて体験し、教わり、学んだもの。決して憶測や思いつきでなく、確固たる礎の基に築かれたもののはず。

しかし、だ。それは本当だろうか。”確信”というものは、現実に存在するだろうか、という疑いをなぜ人は持たないのだろうか、という論点が主題である。”確信”は、”確信”ではなく、”思い込み”や”思いつき”に過ぎないのではないか。なぜ人は、”間違いない”と思い込むのだろうか。そしてそれを疑わないのだろうか。

恋をする。愛が芽生える。”私はこの人を愛している”。そう言った感情が多くの人に訪れる。幾度も繰り返し。あるときは容易に、またいくつかの困難を経て。”恋” と言った薬物中毒に似た病に冒される。これはまさに解剖学的にもその通りなのだが。”恋”のときに感じる様々な”確信”、-愛し合っている、.永遠に続く、遊びじゃないの、君のために死ねる、あなたの親はわたしの親、母の愛は永遠で無償、子はかけがえのない最高の宝もの、-それは当たり前のことで疑いようもなく、”間違いなく、確信して、そうに決まっていると、声を嗄らして幾度でも叫べる。あったり前でしょ。” ということ。

”確信”は当たり前だから、疑わない。疑うことに対して確信とは言わない。疑うことを経た結果が、”確信”なのだ。疑いようのもない事実をなぜ疑うのか、禅問答みたいだ。

しかし、恋の時のそれらは、”確信”でも、間違いないことでも、当たり前でもない。多くの人は恋が冷めたときにそれを感じる。愛はまやかしと気づき、本当は愛してなかったのだと得心する。命に替えたい子供はとんでもない厄介者だし、差し出す愛情を当たり前のように奪い取っていく。子供が何を言ってもいつでもどこでも何をしても可愛い、などという人は多くはいないだろう。確信はいともたやすく消えるのだ。全然確かではなかったのだ。手の平を裏返すように前言を破棄する。多少残渣をぬぐいきれない人もいるが、恋のほとんどは生物学的な目的達成と共に、DNA指示の基に終息する。しかしそれを確認してもまだ、人はまたそれを繰り返す。”確信への不審”を幾度感じても、”次は間違いない”と言い続ける。なぜ疑わない。

”確信”がほとんどの場合一時的な熱波のような思い込みに過ぎないのに。それを”疑わないシステム”に気づかない”生き物の構造”を基に、社会が成り立っている。

多くの異なった”正しい確信”があつまって、DNAの全体意思を伝えている。それは必ずしも個体の意思とはそぐわない。

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